関心を惹くような脚色はせず、耳障りの良い言葉もなるべく用いず、ほぼそのままと言う部分に注力しました。
そのため、単調で読み難い、伝わりにくいところもあるかも知れません。その点あらかじめお詫び致します。
相続や遺言、その他関連することで日々色んなことを考えている人に、相談をしてみたくなった。相談に乗って欲しい・・・そういった一つのキッカケになればと、私のことをほとんど包み隠さず書いてみました。
Contents
店に来てないなんてあり得ない
東日本大震災の翌年、中心部で飲食店を経営していた兄が急逝した。
その場所で10年以上、昼時は常に行列ができていた店の主人であった兄。無断欠勤なんて天地が避けてもあり得ない。
長年働いてくれている従業員Yさん。
携帯も出ない、マンションも呼び鈴に応答がない、カーテンが閉まったまま、車も駐車場に置いたまま・・・
Yさんは姉の主人が勤める企業のカレンダーが店内にあったことを思い出し、店内に入れないため窓越しにカレンダーを凝視し、それに書いてある電話番号で店主の身内がそちらで働いているはずだと異変を伝え、姉夫婦が現地に駆けつけ、不動産会社と警察を呼び、解錠・・・
すでに前日夜には旅立ったそうだ。若い人間の急逝は事件性も視野に入れた「死体検案書」という扱いになることを初めて知った。
母を連れて来ていた私は、警察からの説明を一通り確認した。
その場で知人の葬儀業者へ連絡し、部屋まで棺を搬入し、旅立ちの準備を整えて祭壇へ向かった。
夜中3時頃だったか、葬儀会社と今後のことについて打ち合わせをする。
死体検案書にかかった医師の費用が75,000円。業者でいつの間にか立て替えていたそうで、金額にも(良い意味での)業者の手慣れた対応にも驚かされたのを記憶している。
商売をしていたことから、借財などがないか不安な面も正直あったが、良く考えれば私の兄「借金や人に貸しを作るのが大嫌い」、そんな心配は必要なかった。
ただ、葬儀場に仕入れ業者の米穀店がお香典を持って駆けつけ、その時はなんて素晴らしい会社なのだろうと思ったが、香典を両手で私に差し出し「(売掛金で一月まとめて請求)先月と今月の分の納品済みの方のご請求金はお願いしますね」・・・苦笑
今からお通夜・告別式と控えているタイミングで中々思い切ったものだ。怒りというより、よほど会社から言われたのだろうと同情してしまう笑いが込み上げていた。変にリラックスできたのも覚えている。
葬儀には兄の友人知人だけでなく、母や姉夫婦の友人・知人、私の会社の上司など、「こんなに来たのか」というくらい参列者が続いた。
母が喪主を務め、私は裏方に回った。何度も椅子を追加設置しつつ、担当者に廊下に導かれ、2度3度と香典返しを追加注文させられた・・・いや、追加すべき助言を頂いた・・・苦笑
そして一通りの葬儀を終え、10年ほど前に兄が実父のために建立した墓へと帰って行った。行政書士試験まで4週間ほどだったが、これで終わりではなかった。
兄を称えてくれた、お店の不動産屋さん
葬儀は終わったが、お店の場所は市内の繁華街のビル1階。
突然の契約解除となることから「違約金」の問題が生じていたのだ。
月53万円の家賃。よく10年も払い続けられたものだ。
兄らしく「未納・滞納一度もなし」で、これだけ長く入居してくれているのは大家冥利に尽きるだろう。
しかし、サラリーマンの私にはお店を継ぐことや違約金を払えるような力はなかった。
違約金は6ヶ月分と、当月家賃併せて、400万円ほど。これと別に原状回復費用も考えれば、途方に暮れそうである。しかし、一つ不動産会社から提案された。
「入居時の保証金(兄が借りるときに収めたもの)が200万円ほどあります。相殺しても200万円不足しますが、大家さんに交渉してみます、この条件で弟さん(私)は構いませんか?」というもの。
つまり、保証金を放棄すれば違約金を払わなくて済むような話を、大家さんにしてくれると言っているのだ。有り難かった。
数日して、不動産会社の担当者Mさんから連絡を頂き「大家さんが同意してくれましたので、必要書類等を持って、一度お店に来てもらえますか?」と。
Mさんは思いの外淡々と「この書類であっています、そこに弟さんが署名押印されてください」と幾つかの書類を作っていった。私は違約金を払わなくて済むんだ、助かった・・・正直こういう心境でした。
すべての書類が終わって、Mさんの事務的な表情が微笑むように解けた。
そのまま、穏やかな語り口で、兄について話し出す。
Mさん
お兄さんね、震災でこの辺り大変だったとき、私ら(Mさんの会社の人たち)や、常連さんに大盛りで格安の弁当をたくさん作ってくれてたんですよ。あの地震のあと数週間なんて、電気も水もガスも満足に供給されず、この辺の店どころか、食料そのものの調達すらままならなかった時期じゃないですか・・・そんなときね、あんなに美味くて温かい大盛りの弁当を毎日ね・・・近くの大手企業から「100食」なんて注文も連日来ていたようだけど、「うちは常連さんのだけでいっぱいだから、ごめんなさいね」と断り、この辺の人たちにしか提供しなかったんですよ。水道止まっている施設も多くて、そういう人たちへはトイレうち大丈夫だから用足してきな・・・ 助けられた人数え切れないと思いますよ。私ら(Mさん)もその中に入っているんです。
大家さんには殆ど「このまま」伝えました。
「こんな人のお身内の方々に違約金なんて請求できませんよ」と。
大家さんも涙していたそうです。
金額など誰もみないで、「心」だけで通じあえるとはこういうことを言うのだろう。Mさんたちも、私や仕事の合間で同席してくれた義兄みんなが、涙していた。
仕入れ業者、リース品、従業員さんの対応、そして被災地へ・・・
兄の異変を知らせてくれた従業員Yさんは、葬儀や納骨にも参列してくれた。突然仕事がなくなってしまうが、私から「2ヶ月ほどだけど、店仕舞の手伝いをお願いできないかという問に快諾してくれた。いらないと言われたが“兄から怒られる”」と、毎月の給料日に同額程度の謝礼をお支払いした。Yさんのおかげで、青果、精肉、調味料、冷蔵庫などの、買掛金やリース品の各業者に事情を伝え、残額の決済や物品の返却等を進めていった。
もう一つ大きな仕事があった、それは店内の原状回復。
食材や業務用フライヤー、冷凍庫、什器、食器や調理器具、椅子や机に照明などの搬出作業である。もちろん多くの粗大ごみも出ることになる。
当初は売れるものは売却し、原状回復に要する費用へ充当しようと考えていた。
しかし、ここで奇跡が起こる。
東日本大震災の津波直撃で家や仕事、お店を失った方々を支援しているNPO法人のメンバーAさん、私は以前縁あって話したことがあったのを思い出したのだ。
現状を説明し「店内のもの欲しいとか、関心ある方がいれば・・・」くらいで電話したのだが、「必要としている方々がたくさんいます、明日にでも見せて頂けませんか?」と。
当日、Aさんの目は輝いていた。
「これ、売ればお金になるものもたくさんありますよ? 本当に頂いて宜しいのですか?」と。
私は頷きながら、この人に話してよかったと涙が出そうだった。
1週間後の週末、被災地の方々で手配した運搬用車両複数台とともに、20名くらいのメンバーさん等がお店にやってきた。
使うもの、廃棄するものと、こちらは手出し無用なほどの連携で、店内から物が運び出されていく。冷凍庫内の食材はさすがにと思ったが「賞味期限なんて関係ありません。メンバーで保存食にしたいので、これも頂戴していいですか?」と。
気づけばものの数時間ですっからかんに。
終わったと思いきや、今度は女性メンバーさん複数名で、掃除を始めた。しかも、雑巾まで持って、カウンターだけでなく、厨房や客席の床や壁、窓に至るまで拭き掃除を・・・ もうこのまま次の人に貸せそうな状態にまでなっていた。
感心してAさんと話をしていたところ、何名かの方から「オーナーさんの弟さんですか?」とAさんを見ながら、それにAさんも頷きつつ、私に声をかけられた。
「はい」と答えると、両手を握られ「私たちは南三陸で・・・店やってたんですが・・・こんなに頂いて・・・(どんどん涙が溢れてきて言葉にならない)・・・」。もうそこにいた人、NPOメンバーさんも南三陸の方々も、鼻すすって、口を覆って、みんなグスっグスっ・・・て、なって、私までもらい泣きをしてしまい・・・
そんな感動の中、翌週の年1回の行政書士試験を受け(合否通知は年明け1月末)、あっという間に師走となっていた。
養父の介護の始まりも行政書士合格前
兄の相続手続き等をボロボロでやり遂げながらも、最中で行政書士の試験を受け、夕方に終わった本試験のあとも、残っていたマンション後片付けについて(マンションの)不動産業者と話し合いなど・・・しているとき、養父が足を骨折する。
家の前の集積所にゴミを出した際、車を避けようとしてバランスを崩して転倒したのが原因らしい。
たかが骨折と思っていたが、高齢者にとってどれだけ危険なことなのかを徐々に思い知らされる発端だった。骨が治ったあとも足が急激に細くなり筋肉も落ち、それまでの日課だった散歩ができなくなった。
そして、急激に衰えが加速し、持病だった癲癇(てんかん)の発作もどんどん悪化していくようだった。
極めつけになったのは、自力での排尿ができず救急搬送され、治療の結果カテーテル生活となったのだ。
それまでも順調と言えなかったが、改めて、人生は順風満帆とはいかないものであると痛感する出来事だった。
逃げようと思ったとき、待ったをかけた合格通知
率直に「介護に恐怖を覚えた」私は、絶対に家で面倒など看たくないと、生まれてはじめて老人ホームや介護施設のことを調べ始める。
結果的に、多大な費用がかかること、施設を利用すると年金もすべて消えながら預貯金も投入するのが明らかになってくる。
このとき、私は「養子」で、実の親子でもなかったので、下の世話なんて絶対したくなかったし、周囲の友人たちから「介護で哀れ」などと連想されそうな気がして、それがとても嫌で恐怖で、なんで自分だけが・・・周りは楽しそうに暮らしてるのに、俺だけこんな・・・
アパートやマンションで一人暮らしすれば面倒見なくても良いんじゃないのか・・・こんなことを本気で考える日々だった。
・・・ところが、その気持を一転させる出来事が起きる。
足掛け10年、7回目の受験だった行政書士試験・・・
「判定:合格」!・・・
兄が急逝し、1ヶ月後に受けた7回目の行政書士試験。
正直、自己採点などしておらず、ハガキが届くまでそのことすら忘れていた。
身も心も朽ち果てたところ、どこにこんな活力が残っていたのだろうと思うくらい、すべてが吹っ飛んだ。人間とは不思議な生き物である。
すべての事へ真っ向勝負をかける
逃げると追いかけてくる。これは案外真実なのかもしれない。
もう後ろ向きなことを考えるのはよそう。逃げたり悪い想像力を働かせるより、逃げずに勝負して勝てなかったら勝てる方法を学べばいい。
悪い想像力を活躍させると疲れる。良い想像力を活発にすると善の連鎖が続いていくし、周囲にも好影響を振りまくようだ。
在宅介護へ真っ向勝負
まずは、前年の東日本大震災の後、手を付けていなかった地震火災保険金を使い、それまで2階にあった父の部屋を1階に移し、バリアフリー、車椅子でも入れるトイレやユニットバスにリフォームする
この工事中に退院と同時に利用できるよう、一旦介護施設のショートスティを契約・予約しておいた。
廃棄処分した、半世紀以上蓄積していた膨大な量の家財等
バリアフリーのリフォームの前にすることがあった。
それは父の部屋・押し入れにある膨大な量の家財等。
勤め人のときに支給されていた未開封の作業服上下だけでも数十着、作業靴、帽子、何十年も着ていない春夏秋冬の洋服、上着、未開封のままの祭祀法要やお祝いごと等の香典返しや引き出物などの山という山。
絶対に使わないような机や椅子もかなりの数で、ほかにも、座布団、布団、毛布、絨毯、壊れたラジオやステレオ、冷蔵庫、扇風機、暖房器具、御仏前やご祝儀袋の束も何百枚のものが幾つも(すべて中身を確認したが、旧札が入ったままの物も幾つかあった)、他にも、繰越済みの預金通帳や給与明細が数十年分・・・もう挙げるときりがない。
結果的に、会社同僚の社用車が軽ワゴン車だったため、相談したところ快諾してくれ、市内の処理場へ満載でおよそ8往復前後した。総量的にはトラック1台分以上はあったであろう。
入所前トラブルを乗り越えて
粗大ごみの搬出、リフォームが順調に進んでいった。
しかし、父の入院中に「介護認定なし」で、これから調査員に来てもらう(カテーテル以外にも、持病で「癲癇(てんかん)」を患っていたので、症状は間違いなく要支援2〜介護2の間とのことだが、まだ正式な認定がおりていない)、そんな状態だったため、一度は契約したものの「正式な認定無しでの入所はやはりだめ」と言われる。
私は納得行かず、介護に関する法律をくまなく調べたところ、こういう事象のときは、一旦引き受けたものの、利用者に帰責事由がない状態で断ってきた施設側に、「代替施設を提供する義務がある」という条文を見つけ、それを即座に突きつけたところ、ほどなく「再了承」となり、ショートスティ利用に至った。ここでも真っ向勝負である(笑)
およそ1ヶ月の改修工事を終え、いよいよ「在宅介護」が始まる。
デイサービスは送迎があるが、定期的な医師の診断や、処方箋の受取、様々な付帯医療措置のための看護ステーションについては、通院などの対応がとてもできないため、すべてを往診、訪問にするべくケアマネージャーに委ねて手配をつける。
(月)訪問看護&訪問ヘルパー
(火)デイサービス
(水)訪問ヘルパー
(木)訪問ヘルパー&隔週往診
(金)日中デイサービス&夕方訪問薬剤師
(土)訪問ヘルパー
(日)デイサービス
とにかく毎日医療介護関係者が自宅にやってくる。
その度にインターフォンが鳴り、受け入れをするのもとても困難なため、
1階用のインターフォン、2階用のインターフォンを個別に案内板とともに設置し、更に鍵は介護施設に一つ託し、勝手に入って勝手に帰るようにお願いした。しかし、毎回同じ担当者ではないので、これが浸透するまでには半年・1年を要した。
カテーテル付けての退院
カテーテルとは、自力で排尿できない人のために体に直接取り付ける医療器具で、湯たんぽを平たくしたような形状のものへ直接排尿をためていくもの。
概ね1週間〜2週間に一度往診医師が交換に来るが、交換直後は尿が無いので無臭だが、徐々に大変なことになっていく。
最初の数カ月は大丈夫だったが、殆どの人が「細菌感染」して、自覚症状はないようだが、無臭は不快な臭いへ移行していく。
すると、徐々に尿臭が部屋中に蔓延するようになる。
この臭いからは在宅介護を選んだ以上、24時間365日逃げられない。
出勤時も帰宅時も、食事の時も、逃げられない。
大変なストレス。頭もおかしくなりイライラする。
来客も断るしかなく、いつしか家に人を寄り付かせないようにしていった。
外部からの聞こえも悪くなる。適当に介護してるんじゃないか。
あんな息子に世話されて可哀相に・・・こみ上げる怒りを我慢しながらの在宅介護は続く。
そのうち「事情も知らずに好き勝手言ってる人は、いざという時何もしてくれない人。だから存在自体忘れてしまおう」これでだいぶ楽になった。
だけど、人のことは忘れても、尿臭だけは消えてくれない。消臭剤や蚊取り線香など、あらゆるものを試してみたが、本当に「ごまかすだけ」で根本的な所が変わらない以上、すぐもとに戻ってしまう。
この状況は介護が終わるまで続き、人生で最もキツかったと言って過言ではない。
在宅介護をやったことない人が、たまに15分くらい「善人顔」をつくって「その顔が崩れる前に」御暇(おいとま)していく。
父は「あの人優しくて良い人だ」と言葉も顔も語っている。
これに我慢するのは精神的にもモチベーション面でも辛かった。
割り切り、線引き(日々の触れ方)
外出のできない在宅介護の高齢者はやることがない。
だから、色んなことを考えている。
一人で考えているときは、概ね「悪い方」のことが多い。
それは類に漏れず、激しい思い込み、自分中心、被害妄想など、これを朝から晩まで暇なく見聞きするのは、精神的にやられる。
決して認知症などではないが、大体こうなるようだ。
なので、朝「おはよう」と声をかけて「生存確認」、夕食時に「はい、飯(弁当など)」と渡し「二回目の生存確認」をし、必要以上に話を聞かないようにするのが自己防衛だと気付く。
冷たいと思われるかも知れないが、そうでもない。
その分ヘルパーさん、看護師さん、薬剤師さん、往診の先生などとはフレンドリーに明るく積極的にコミュニケーションするようになる。
デイサービスやショートスティも「るんるん」で出かけていく(たぶん私への愚痴も連発していたことだろう(笑))。
「めりはり」「役割分担」など、十人十色の表現だが、在宅介護の負担を減らすため外部に依頼しているので、頼めるところは存分に遠慮なくお願いしていこう。その人達より良い人を演じようとするのも止めようと。
もちろん、いざというときは身内として対応する事は言われるまでもない。
だが、「身内以外でも」いや「身内以外の方が良い」ものは、すべて外部に頼ったほうが、円満に長続きする秘訣だと。
「そう」思って頂いて結構ですよと、ケアマネージャーHさんが言ってくれた言葉を思い出す。
そのおかげでか、ヘルパーさんも、看護師さんも、気分良く仕事をしてくれているような印象を受け、これは最後まで変わらなかった。
ケアマネージャーという人
いまだから言えることだが、ケアマネージャーという職業は本当に忙しい。そして、経験値や人柄でもガラッと対応は異なる。
相性が良いケアマネージャーに出会えれば素晴らしいことだが、お世辞にもそうとは言えないケアマネージャーが担当についたら、すべてを鵜呑みにしていると大変な事態に陥っただろうと断言できる。
実際にケアマネージャーの言う通りになんてとてもできないのに「他のお家ではやってるので、がんばって下さい」の一点張り、悩みを聞くだけで「上司とも話してみます、確認します」と言って1年以上経っている・・・など、そういう悩み相談を何度も聞いた経験がある。
私の家は運良く「素晴らしい」ケアマネジャーさんだったので、往診や薬剤師、看護ステーションなどを、介護と医療を「横断的に」対応してくれ、本当に助けられた。
父の洗濯物も本来は同居人がいると介護サービス内でやってくれないのだが、適切な助言を頂戴して、それも介護保険内で対応してくれるように知恵を絞り出してくれたことに感謝している。
もし、「相性の悪い」ケアマネジャーだったら、インターフォンの度に受け入れし、介護や医療の措置中はずっと在宅・同席し、通院や処方箋受取、その他様々なことを言われた通りにすることで、生活する時間の殆どを持っていかれただろう。
会社勤めをしながら在宅介護を最後までやり遂げられたのは、ケアマネジャーHさんの力が大きかった。今でも心の底から感謝している。
医療介護費用の支払いのために親子で真剣に話し合い
正直なところ養父と私に「通帳やカードをすべて預ける」という信頼関係があるのかは何とも言えない所だった。
しかし、口座引落になっているものでも、年金や水道代は郵便局口座、A銀行からは固定資産税、違う銀行からは介護医療費など・・・今までは自分で資金移動をしていたのだろう。
しかしもう、父は自分で銀行に行ったりできない。親子で現実と向き合った話し合いが必要だった。
普段は父に対して生意気な態度を取っていた私も、このときばかりは心拍数が早まった。
恐る恐る父に通帳やカードを私に預けるよう伝えたところ・・・拍子抜けするほどあっさりと「これで全部だ。暗証番号は・・・」実印や印鑑登録カード、保険証など、そのすべてを引き渡されたのだ。
「これからよろしく頼む・・・」と言った青臭い会話はなかった。
無かったのだが、父は随分スッキリした顔だったこと、今でも脳裏に焼き付いている。
父の通帳を何度も見返していくと、どれだけ父の年金に生活が依存しているのかがよくわかった。
それまでは、幾ら年金が入ってきているのかさえ知らなかったのだ。
2ヶ月に1度、偶数月の15日ころという事でさえ、初めて知った。
父の代わりをする
父の代わりと言っても、やることは、医療契約のこと、介護契約・介護認定のこと、引き落とし口座の統一や、お金の出入りの管理などである。
それまでは自分の給料から数万円家計に入れ、あとは自分で好きなように貯金したり消費したりしていたが、父の預貯金をすべて管理することになったため、それまでのような「子ども」ではいられなくなったのだ。
今までもギリギリの収支だったが、医療介護費の負担が増えて、明らかに貯金を崩していっているのが分かった。父名義の口座なのだが、同居している自分の生活にも直結すること。いい加減でズボラな対応は自分で自分の首をしめることになる。
いつの間にやら私は、家計の収支管理に人一倍うるさい人間になっていた。
お金は留めすぎても、使いすぎても、早く出しすぎても、遅く出しすぎても良くないようなのだ。血液のように、安定した流れで滞りなく、体全体にバランスよく流してやらないと、色んなところで問題が生じてしまう。
居宅の生活費、医療介護費、これらのバランスをみながら水道光熱、食料や日用消耗品などを検討し続ける。
「父の代わり」をすることで、少し「大人」になれたのかもしれない。
友達の存在も大きかった
在宅介護と父の代わりを5年、10年と続けていく過程の中で、行政書士事務所を開業しつつ、サラリーマンも兼業する日々が続いた。転勤もできない、泊りがけの旅行にもいけない、行動範囲はその日家に戻れる場所。
いつ終わりになるのやら分からないこの生活・・・そんな中、私の現況をよく知る友人Eから「飲みに行こう」と誘われた。
久し振りに会い、黙って私の話を聞いていたEは、「父さんより、お前が先に死にそうだな」と口を開いた。
Eは間髪入れず「親父さん施設に何日か預けられるんだろ? 南の島にでも行ってリフレッシュしないと、お前だめになっていくかも知れないぞ」と。
私「いや、そんな事言われても・・・(訪問介護、看護師、薬剤師、往診医師のことなど話しながら)・・・何かあったときにさ・・・」と、今思えば“殻に閉じこもっていたい”“おれは大変なんだ、そのへんの奴らと違うんだ”と「断る言い訳」を巡らせていました。
しかし、Eは止まりません、私がトイレに行ったわずか数分の間に「もうお前の分、飛行機も宿も予約しといたから。11月のこの日程な。親父さん預ける・・・その・・・ショート何とかってののお金、俺全部出すよ、だったら大丈夫だろ?」
嘘だろとEのスマホの画面を見ると、すでに私のフルネーム、生年月日等が記載されています。Eは「おまえの方にもメール行ってるはずだぞ・・・」
「ほ、ほんまや来とる・・・こいつなんてことしよんねん!!」
電光石火の出来事で、怒りも驚きも何なのか分からないまま・・・これは現実? こういうのが狐や狸に・・・なのか・・・ これドッキリだよな・・・? と混同が収まらない。
「じゃ、2件目行くぞ」とE。
少し落ち着いた店で、Eは「お前これくらいやんないと息抜きなんかしねーだろ。何年親父さんに付きっ切りで看てんだよ。オレはな、お前も心配だけど、お前から逃げられん親父さんも大変じゃないかと思ったわけよ。だから荒療治だけど、一旦強制的に、お前は俺と南の島で思いっきり羽根を伸ばしてもらう、お前が嫌と言ってもな。んで、親父さんもたまに違う環境で気分転換してもらう、これマジで大事だぜ?」と。
そして、Eの言う通りになった。私はEと南の島(石垣島)へ4泊旅行、父は施設内のイベント(観光地遠足など)がたまたま重なった日程に、ショートスティへ。
旅から戻り分かったが、Eは正しかった。
こういう風にリフレッシュしながらであれば、辛いことも頑張れそうだ。もう10年は父の面倒看れる・・・と。
長年の在宅介護は、意外にあっさり閉幕した
石垣島から戻り数ヶ月。年が明け、父の体調が急変した。
往診医師が言うにはインフルエンザから肺炎とか何とか・・・
それまで弱気なことなど口にしなかった父が「何とか頑張ってみます・・・」と土色になった生気のない顔と声。
話さなくなり、食べなくなった。寝たまま起き上がれなくなり、咳が止まらない。家族のことも識別できなくなっていく感じもした・・・
ここ3日くらいの出来事である。
最後の朝、もう咳すら弱々しい。10年看てればわかる。絶対いつもと違う。今日がヤマか・・・
家を出てすぐヘルパー、看護師に連絡し、こまめに訪ねてほしいと要請。
しかし、行ってきますの声に震える手を挙げて応えたのが、目にした最後の動く姿だった。昼休みに家に戻ると、「あの咳」が聞こえない。
口が半開きのままだが、もう息を引き取っていた。ほどなく「本日2回目」と看護師さんが訪問してくれたところ・・・
一応先生(往診医師)に連絡して来てもらいましょうね・・・
看護師さんが先生に連絡し、先生が来てその場で死亡確認。
病死で診断書作って持ってきますと。
いつの間にか看護師さんが父を普段着に着替えさせてくれていた。
穏やかな顔だ。
死亡診断書をもとに医師は「救急搬送も必要ありません、このまま葬儀会社さんとかに相談してもらって大丈夫ですよ」と。
兄のときも世話になった葬儀会社に電話すると、ほどなく立派な車へ正確無比・丁寧な手順で父を乗せ、祭壇へと運んでくれた。
菩提寺とのやり取りや納骨を経て、あれだけ長く険しく起伏ばかりの遠い道のりだった約10年にわたる在宅介護は終わった。
あと10年は看れると思えた2ヶ月ほど前の自分。
人生は本当に不思議なものだ。やりたくないと逃げていれば何処までも追いかけられるし、真っ向勝負しようと気力もみなぎって立ち向かうと、あっという間に勝負は着いてしまう。
父が旅立ったその年の12月、すでに開業中の行政書士業に専念するべく、長年世話になった会社を退職した。
相続や遺言に関する実務上の知識や経験とともに、ここに書き記した人生経験も上乗せして、何から話していいのか分からない人や、昔の自分と似た境遇にいる人達の、何かの役に立てればと日々思いを馳せている。